戸倉がお届けするおやすみ工房 のブログ〝 金曜日の日記〟!
昨夜は〝 おやすみ工房〟お聴きくださりありがとうございました。
今回はワードが三つ届きました。
ありがとうございました。
届いたワードは、
「花火大会」
「忘れた傘」
「コンビニ」
そして生まれたセレナーデのタイトルは、
「花火」
今回は月に一度のスタイル、木村菜緒が中心になってセレナーデを作りあげた。
さて、久しぶりに季節に沿ったセレナーデが生まれた。
コロナ禍、今年も花火大会は中止される所が多いのだろう。
この〝 おやすみ工房〟も考えてみれば昨年10月、コロナ禍の中始まった。
そして八ヶ月。
ワクチンもそろそろかと思うのだが、それよりなによりこの国の姿が露わになり、私も生まれて初めてこの国が嫌になった。
物事をハッキリ言わず、タマムシ色を好み、肝心なところは全て隠す。
これ、今の政治家を批判するだけでなく、日本の本質的な姿なのだとつくづく思った。
本当に悲しくなる。
子供たちが運動会が出来ない、遠足に行けないと言って泣いているにも関わらずオリンピックに向かって突っ走るこの国。
テレビなど観られない。
何もかもが嫌になる。
そんな中この〝 おやすみ工房〟が始まり、この八ヶ月で30曲のセレナーデを生み出した。
そのセレナーデに私は間違いなく救われている。
〝 おやすみ工房〟の出演者三人がこのコロナ禍に私の居場所を作ってくれた。
それは心も体も。
私は裏方で〝 おやすみ工房〟に携わっているが、〝 おやすみ工房〟を聴く金曜日の夜はリスナーの気分になって聴いている。
昨夜は家内と久しぶりの京都で聴いた。
京都は私の故郷だからまだ身内が沢山いる。
しかし久しぶりに会っても話しは弾まない。
ワクチンを打ったがマスクを付けたままの久しぶりの顔合わせ。
その身内の顔をみてコロナを恨んだ。
しかし今こそしっかり前と自分を見つめて生きていかなくてはならない。
そして生きることを継続させなくてはならない。
その継続させてくれるエネルギーとなっているのが〝 おやすみ工房〟で生まれるセレナーデ。
私にとっては〝 おやすみ工房〟は生活の中のペースメーカー的な存在で、金曜日の夜に生まれるセレナーデを聴いて「よし!やろう!」ではなく、「了解!」と受け止めて明日へ向かう。
〝 おやすみ工房〟はそういう存在だ。
身内がやってるからという、当然贔屓目もあるが、よく考えて見て欲しい。
このコロナ禍、八ヶ月、毎週一曲番組で作って公開している。
それも、月末にはアレンジして作品化して公開している。
これはなかなか出来ないことだ。
そして今回の「花火」のように、季節に沿って歌が生まれている。
スゴい足跡ではないだろうか?
このコロナ禍、一番大切なもの、それは毎日生きていく上でどんな物でもいいから足跡を刻むということではないだろうか?
それは〝 一行のメッセージ〟でもいい。
〝 一枚の写真〟、そういう物を毎日足跡に残して生きていくことで、本当の意味でコロナ禍を乗り越えたと言えるようになるのではないのだろうか?
それを試されているように思えてならない。
まず自分をしっかり見つめて、自分を作り上げて、そして失っていたものを見つけてから世の中を見つめ直す。
それが一番大切なことだと思う。
この〝 おやすみ工房〟は私にとって間違いなくコロナ禍で生きる上でのペースメーカー的な存在なのだ。
そしてこの〝 金曜日の日記〟を書き続けていることは私の為でもある。
さて、今回の「花火」。
コンビニの前で一人でいる彼は彼女と別れてしまったのだろうか?
会えなくしてしまったことでコロナは多くの恋愛を壊したようにも思う。
歌詞にある、
「空に咲く花よ開け 空に咲く花よ開け」
この言葉が全てなんだろう。
当たり前のように行われていた夏の風物詩、「花火」が見れない。
本当にこの新型コロナウィルス、早く収束して欲しい。
そして人の声を聞き入れないこの政所もコロナと共に収束させなくてはならない。
そういう意味でもこの秋は大切な秋だ。
政所を収束させる機会を与えられているのだから。
今日はいつもとは違う〝 金曜日の日記〟となってしまった。
実は京都にいる身内が明後日、月曜日から入院する。
コロナ禍で手術が遅れ、やっと手術が行われるので顔を見に行ってきた。
場合によってはこれが最後の出会いかもと親族は覚悟しての出会いだった。
コロナ以外の病気で苦しんでいる人達がどれほどいるのか?
わかっているのだろうか?
昨夜京都で聴いた〝 おやすみ工房〟は深い思い出になる。
戸倉
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